HISTORY5:自律・分散・協働型社会への先駆的助走(2010年代) 


ダンクソフトの歴史を語る「HISTORY」シリーズ。第5回目の今回は、2010年代から現在までをお話しします。2011年の東日本大震災からコロナ禍まで、世界が大きく変化しています。そのなかでダンクソフトの未来への起点を、いくつもつくった転換期です。  

▎流れを変えた、徳島サテライト・オフィス設立 

 

前回の「HISTORY4」では、2000年代を取り上げました。GAFAが急速に世界に展開していった時期です。その一方で、日本のデジタル化は大きく出遅れ、世界から取り残されていきました。思ったように進まない日本の状況に、もどかしさを感じざるを得ませんでした。 

 

そのような中にあっても、まずは自分たちから「理想のインターネット」を実現していこうと、ダンクソフト社内の働き方改革や環境改善を進めていきました。働く一人ひとりの「人間」に注力して、デジタルでどこまでできるかを模索したタイミングです。 

 

これら2000年代の努力やしかけが、いよいよ顕在化してきたのが2010年代です。この時期、ダンクソフトは、時代に先駆けてサテライト・オフィスやテレワークの実証実験を、日本各地でスタートします。ペーパーレス、自由度の高い働き方など、ダンクソフト文化の先進性が高く評価されはじめ、大きな潮流が生まれていきました。 

 

中でもダンクソフトにとって大きな転機となったのは、やはり徳島にサテライト・オフィスをかまえたことでした。徳島以前と以後では、組織も文化も変わりました。それほどに影響力のある出来事でした。 

  

▎自分たちが「進んでいる」と気づき始めた 

 

2009年、ダンクソフトは「中央区ワーク・ライフ・バランス推進企業」認定制度の、第1回認定企業に選ばれました。翌2010年には、中央区に続いて、東京都産業労働局が合計10社程度選定する「東京ワーク・ライフ・バランス認定企業」にも選ばれます。こうした受賞をきっかけに、自分たちの働き方が、世の中より進んでいることに気づき始めたのが、2009年頃でした。 

 

また、2010年には、経済産業省が主催する「中小企業IT経営力大賞」も受賞しています。この頃、ダンクソフトはすでにペーパーレスをほぼ実現していました。紙のない会議や、複写機のないオフィスを、多くの企業や行政が視察に訪れました。皆さんずいぶん驚かれたのですが、自分たちにとってはもう当然のことになっていたので、驚かれることに私たち自身が驚いていたものです。ただ、この現象は、10年以上たった今でも、続いています。 

 

ダンクソフトの受賞歴はこちら
https://www.dunksoft.com/award

実際には当時、ワーク・ライフ・バランスを推進する企業はまだまだ少なく、特に中小企業では「そんなことをしていたら会社がつぶれる」という考え方の経営者が多かったのです。ペーパーレスも、世の中ではまだ夢のような話でした。景気も調子のいい時期でした。 

 

こうした流れのなかで、3.11が起こりました。これは大きな衝撃でした。  

▎アフター3.11、新たなパラダイムの中で 

 

2011年3月の東日本大震災で、世の中のパラダイムは大きく変わりました。震災と原発事故によって、それまであたりまえだった「日常」が足元から崩れました。仕事をする意味を考え始める人も出てきました。人は自然にあらがえない。あの事象をまのあたりにして、あらためてそう気づき、価値観を変えていこうとする人も多くいました。 

 

私たちも、BCP(事業継続計画)の観点から、震災後に徳島に行くことになり、ものの見方がまったく変わりました。それまで山手線の内側だけが商圏だったものが、一気に視野が広がったのです。 

マイクロソフトの事例紹介で、ダンクソフト星野が東日本大震災当時の考えを語っています。

  

▎新たな希望と可能性:「デジタルを活用すれば、できる」 

 

少子化、首都圏一極集中、地方の衰退、過疎化、消滅集落、少子高齢化。地方には仕事がなく、一方で都会では技術者不足の未来が目に見えており、日本の課題は深刻化するばかりです。地球規模で見ても、気候変動、森や海などの環境破壊、戦争や紛争、エネルギーや食料の枯渇など、課題が山積みです。社会全体が行き詰まって、このままでは無理なことは明らかでした。 

 

当時、世間では「打つ手がない」という論調がほとんどでした。ですが、私たちにはそれとは違う可能性が見えていました。 

 

それは、 

「デジタルを活用すれば、できる」ということでした。   

▎NHKで全国に衝撃をもたらした徳島の情景 

 

2011年9月、徳島県神山町で、県内の地域団体と連携して、サテライト・オフィスの実証実験をしました。地域団体と連携したのは、ヨソ者だけでやるのではなく、地元の方たちと一緒にやることが大切だと考えていたからです。 

 

それでも、最初は東京の会社がマーケットを広げに来たと誤解され、「黒船」と呼ばれたりもしました。だからこそ、丁寧に「対話の場」を設けることを決め、地道に丁寧なコミュニケーションを重ねるなかで、次第次第に地域との関係を深めていくことができたんですね。 

 

さて、このときの取り組みをNHKが取材に来ていたんです。10月に徳島放送局で、12月にはNHK総合テレビ「ニュースウオッチ」で紹介されました。放映された情景は、川の中でPCを使って仕事をしている人の姿。この映像は観る人に強烈なインパクトがあったようですね。 

 

その後、「あの映像を観ましたよ」という人たちに、いったい何十人あったかわかりません。目にした方々に、新しい未来や希望を直感させる光景だったのでしょう。これが全国に流れました。この映像を観た人たちの中で、デジタル化への意識が芽生える転換点となったことは間違いありません。   

▎何も諦めなくていい 

 

こうした一連の流れから、ダンクソフトでは、徳島市内にサテライト・オフィスを開設することになります。きっかけは、ひとりの働きかけです。「地元・徳島を離れず、自分の持てる力を活かして、ダンクソフトで働きたい」とプロアクティブに行動した、ひとりの人間がいたことで、徳島にオフィスが生まれたのです。彼はエンジニアであり、夫であり、父であり、生まれ育った徳島での生活を望む徳島市民でした。 

 

ダンクソフト 竹内祐介の「物語」はこちら
https://www.dunksoft.com/40th-story-takeuchi

これが当社の竹内さんなのですが、当時の状況では、彼が望むワーク・スタイルをかなえる道がありませんでした。エンジニアとしての仕事は、徳島県内にはほとんどなかったのが実情です。徳島で暮らし続けるには、「何かを諦めなくてはいけない」。この切実な発言を聞き、そんなナンセンスな話はないと考え、竹内さんをスタッフに迎えいれ、徳島に拠点をつくりました。それから10年、何も諦めなくてよい環境で、彼は開発チームのマネジャーとして活躍しています。 

  

▎事情や課題は一人ひとりちがう 

 

これに先立って、2010年には、育休から復帰したスタッフがダンクソフト初のテレワーカーとして、仕事を再開する場面もありました。彼らのような人たちがいることで、ダンクソフトにはそれ以降、より多様で、優秀な方たちが集まってくるようになりました。 

 

私が、がむしゃらに働いた80年代90年代を経て、フランスでの体験をきっかけに無茶な働き方に疑問をもつようになったことは「HISTORY3」で話したとおりです。 

 

事情や課題はスタッフごとにちがいます。それを丹念に聞いて課題解決し、事例化していくことは、企業としての蓄積になります。もちろん、後に続く人にとっても、これからの若者の未来にとっても望ましいことです。 

 

今では、様々な地域にいながら、子育てをしながら、介護をしながら、あるいは海外から、優秀な人たちが多様なスタイルで働くダンクソフトになっています。   

▎「インターミディエイター」という概念に出遭って見えた未来 

 

2013年、もうひとつの大切な出来事がありました。それは「インターミディエイター」という概念に出遭ったことです。 

 

それまで手探りしながら、あるいはポール・フルキエの『哲学講義』、中国との縁がきっかけで読んだ孔子の『論語』、荘子の『荘子』などに学びながら、自分なりに考えてきたことが、ここで明確に言語化されました。このフィロソフィーが入ってきて、勇気づけられて、ほっとして前を向けるところがありました。 

 

また、一般的にいわれる「マーケット」という概念をリセットできたことも大きかったですね。お金のやりとりをするだけがマーケットではない。マーケットとは本来、人と人が集まって交流する場であり、対話の場であって、経済的な取引はその一部で起きているにすぎません。 

 

震災の直前に始めた生放送のラジオ番組を「ツイッター市(いち)」と名づけたのは、まさにそうしたマーケット本来のイメージを「市」に託したものでした。多様な人々が集まり、交流し、対話を行うこと、つまり、場における相互作用が、市でのイノベーションを生み出します。この考え方は、後にソリューションとして開発した「ダンクソフト・バザールバザール」(2016年)の名前にも、継承されています。 

 

ダンクソフトにかかわる人たちが考える「未来の物語」を紹介しています。https://www.dunksoft.com/40th-story

最近も、どうして先んじて未来を実現できるのかと、ご質問いただきました。「インターミディエイター」のマインドセットのひとつに、未来の物語を描く“ナラティブ・ケイパビリティ”というものがあります。未来を構想し、物語化することで、連携・協働がしやすくなって、構想の実現がはやくなるわけです。物語を未来にむけて実践し具現化していくことによって、ダンクソフトではここのところ、様々な新しい動きがここそこに生まれています。   

▎いつまでファックスを使い続けるのか? 

 

一方、社会の動きとしては、2014年に、まち・ひと・しごと創生「長期ビジョン」「総合戦略」が閣議決定されています。ようやくというか、今ごろというか、世の中の変化というのは、私たちの思うようなスピードでは進んでくれないものです。 

 

働き方改革、テレワーク推進、ペーパーレスも同様です。これだけ「DX」(デジタル・トランスフォーメーション)と言われながら、まだファックスを全廃できていない状況を一刻も早く何とかしなければ、子どもたちの世代に負の遺産を遺してしまいます。   

▎オープンでフラットなインターネット社会をつくるために 

 

問題は他にもあります。インターネットがここまで広がると、怪しいサービスや広告モデルに席巻されてしまい、今や、インターネットの安心・安全・セキュリティは、ますます重要な課題になりました。 

 

以前からお伝えしてきた通り、インターネットは便利ですが、パーフェクトなツールではありません。国家をまたいで情報が行き交うサイバー・スペースには、警察がいません。フェイクニュース問題はもちろん、世界では子どもの誘拐など実害も多発しています。情報格差・学習格差も深刻な課題です。 

 

ですから、これからますます重要になるのは、「インターネットに “よりよいもの” をのせていく」ことです。ダンクソフトは、これを掲げながら、よりオープンでフラットな、健全なインターネット社会をつくっていけるよう、努力を続けていきたいと考えています。   

▎「リバース・メンタリング」の時代へ 

 

今後のカギは「リバース・メンタリング」です。年長者が若い人たちに上から知識を教え込む時代は終わりました。これからは、それが逆転して、むしろ若い世代に学ぶ時代、そして、ともに学びあうCo-learningの時代です。特に、デジタル分野についてはそれが顕著です。 

 

日本にもデジタル・ネイティブ世代が育っています。AIでトレーニングを積んでいる将棋の藤井聡太さんもそうですし、若いテニス・プレーヤーは、ゲームを通じてフェデラーやナダルのプレイを体験し、経験値を積んでいます。ダンクソフト新入社員の港さんは、家庭のデジタル大臣として、年長者たちをサポートしながら家庭内デジタル・デバイドを解消しているようです。 

 

また、ゲーム世代は、オンライン・ゲームなどで、国境を越えて協働することの愉しさや効果を、身をもって知っています。従来の考え方に縛られている大人よりもずっと、これからの新しい発想やリテラシーを身に着けています。さらに急激に進化していくデジタルやインターネットは、チームで学ぶ習慣が求められて、Co-learning 自体が組織文化に必須になる、と考えています。こういうことを、かえって大人たちは知りません。「またゲームか」と眉をひそめているあいだに、彼らはやってくる未来に積極的に適応しているのです。 

 

ここからさらにデジタル技術は進歩していきます。Co-learning を通じて新しい世代の得意なデジタルと、大人たちの経験や知恵とを交換していくことが、イノベーションを起こしていくと確信しています。なにしろイノベーションとは異質なものの関わりから生まれるのですから。彼らを教育するのではなく、ともに学び合って、エンパワリングし、力になっていけるか。私たちがこれをできるかどうかで、身のまわりも、日本人の未来も変わってくることでしょう。 

ダンクソフト 星野晃一郎の「物語」はこちら
https://www.dunksoft.com/40th-story-hoshino