HISTORY2:つねに新しいものを取りいれ、難局を超える(90年代前半)


今月のコラムは、ダンクソフトの歴史を振り返る「HISTORY」シリーズの第2回。世界も日本も、そしてコンピュータ業界も激動した1990年代前半をとりあげます。  

▎90年代前半はパーソナル・コンピュータ黎明期 

 

前回の「HISTORY1」は、80年代の創業期、最初の「はじまり」についてでした。創業社長の急逝から私が会社を継承したこと。メインフレーム主流の時代に、いち早くPCベースでの開発を選択したこと。自社製品の開発を志向していたことなどを、コンピュータ業界の時代背景もまじえて話しました。 

 

今回は、1990年代前半に入ります。世の中は、空前のバブル景気から、バブル崩壊へ。湾岸危機、ソ連崩壊、そして阪神大震災、地下鉄サリン事件。危機や災害は遠い世界だけの話ではなく、私たち自身の日常にも潜んでいることを思い知らされる出来事が続いた時代です。 

 

この頃のコンピュータ業界は、いよいよパーソナル・コンピュータが席巻し、マイクロソフトが台頭してくる、コンピュータ黎明期です。アップル、マイクロソフト、IBM、富士通、NEC、コンパック、ゲートウェイ……。各社がこぞって新製品を開発し、業界が激しく動き始めた時期でした。そして、まだ世界が今のようにネットワークで複雑・多様につながってはいない、インターネットの夜明け前でもあります。 

 

HISTORY 1:1983年、はじまりをつくる会社の“はじまり” 

https://www.dunksoft.com/message/2022-02  

▎一太郎、Lotus 1-2-3、NECの独壇場 

 

まず、当時の業界事情をざっと見ておきましょう。 

 

コンピュータというハードウェアを動かすには、基本ソフトウェアであるOS(オペレーティング・システム)が必要です。今でこそ、OSといえばWindowsとMac OSが圧倒的ですが、現在に至るまでには、さまざまなOSの栄枯盛衰がありました。また、OS上で使われるソフトウェアも、激動の変遷をとげて、今に至ります。 

 

80年代末から90年代初頭は、IBMがAppleのMacに対抗して、MS-DOSの後継となるOS/2を出した頃です。表計算ソフトといえばLotus 1-2-3(ロータス ワン・ツー・スリー)が強く、Microsoftのマルチプランだった時代です。プログラミング言語としてはBASIC(ベーシック)が主流でした。 

 

しかし日本のPC事情は、世界の趨勢とは少し違っていました。NECが圧倒的シェアを誇り、中でもなんと言ってもワープロソフトの一太郎、それに表計算ソフトのLotus 1-2-3がセットになって、オフィスの中に浸透していきました。もうひとつ、NECのパソコンはカラーグラフィックが豊富な色を表現できる強みも大きかった。IBMはビジュアル性能でNECに勝てなかったのです。 

▎OS/2からWindows3.1へ 

 

当時、当社はNEC系列の会社と取引があり、工場のオペレーティング・システムや東京駅の駅案内システムなどを開発していました。私自身は、同時に、NECがつくったBit-INNというパソコン・スクールの秋葉原校や大阪校で、OS/2や、プログラミング言語であるC言語やアセンブラの講師をしていました。 

 

昔から新しいもの好きが集まる会社だったんです。自社製品の開発にも、当時最新だったOS/2でのプログラミングで、いち早く挑戦しました。ただ、できたはいいが、あまりにも重かった。今までのマシンでは満足に動かず、なかなか実用には耐えませんでした。 

 

そこへ登場してきたのが、Windows3.0です。画期的なOSとして、1990年5月の登場以降、世界を塗りかえていきました。ですが、日本でのWindowsブームは、93年に登場するWindows3.1日本語版を待つことになります。当時まだ日本語対応の壁はそうとうに高く、開発が難航したのでした。   

▎ビル・ゲイツと意見交換した、第1回Windows World 

 

Windows3.1日本語版の発売に向けて、日本でもこのOSを広めようと、1991年6月、幕張メッセで第1回「Windows World Expo/Tokyo」が開催されました。当時大盛況だったMac Worldと比べ、Windows自体がまだ普及する前だったこともあり、イベント規模はとても小さかったんです。でも、面白そうだから出てみたい。出展社も来場者も少ないなか、実はこれに当社が出展していました。 

 

といっても、Windows製品はまだ作っていません。ないけれども、2つの製品を出展しました。ひとつが、MS-DOS用のWindowsシステム。もうひとつが、ロサンゼルスにある私の従兄弟の会社が開発した画像データベースの日本語版、自社ブランド製品でした。 

 

ビル・ゲイツと直接会って意見交換をしたのは、その初日の夜の懇親会です。その時出展している人たちと、ビル・ゲイツを囲んでの小さなパーティが開かれました。成毛眞さんもいました。 

 

せっかくの機会ですから名刺交換の際に、日本の機器とWindowsとの互換性のなさについて、ビル・ゲイツに物申しました。何とかします、と返答をもらったことを覚えています。当時の私の発言が寄与したかどうかはわかりませんが、いまやWindowsは互換性に配慮した製品になっています。 

 

開発者をパートナーとして大切にするMicrosoftの社風は今も変わりませんが、さすがに今ではこんなことはありえませんね。当時の日本が、いえ、世界でも、まだWindowsブレイク前夜だったことがわかります。   

▎バブル崩壊、遅れてやってきた打撃 

 

1989年12月29日、日経平均株価が史上最高の38,957円44銭を記録しました。空前のバブル景気です。株価はこれをピークに下落を始め、1991年3月、いわゆる「バブル崩壊」が始まります。しかし、実際に景気の悪化を私たちが実感するまでには、半年近くのタイムラグがありました。 

 

当時は大手企業の受託業務が多かったため、景気悪化の影響は大きいものでした。大口顧客の仕事が突然切られるなど、急激に仕事が減っていきました。その結果、1991年の暮れには、25人いた社員をわずか4人にまで減らさざるをえなくなっていました。チームごとクライアントに引き取っていただくなどの対応に努めはしたものの、新米経営者として、とても辛い経験でした。   

▎小さなチームでの再スタート。新発売のAccessを求めて、ロスへ飛ぶ 

 

小さなチームでの再スタートとなったのが、1992年初頭です。それまでの仕事が激減するなか、休暇もないほど働きづめだった状況から一転し、考える時間ができました。 

 

それまでは受託開発が中心でしたが、私自身はもともと音楽がつくりたかったことも重なり、これからは新しく自社製品を開発していこうと、思いいたります。これは、先代の創業社長がかかげたビジョンでもありました。 

 

当時はインターネットがまだない時代ですから、情報をとるには、アメリカのパソコン雑誌からでした。3、4か月後に日本に着くわけですが、定期購読していたんです。そこで、新しいデータベースソフト「Microsoft Access1.0」がアメリカで発売されるという情報に出会います。 

 

当時、日本ではPC用の本格的リレーショナル・データベースが、まだほぼありませんでした。データベースも自社内で開発していたのですが、限界がありました。そんなとき、パソコン雑誌でAccessの登場を知り、思ったんですね。これはまさに私達がほしかったものだ、と。 

 

そこで、ロサンゼルスまで飛んで、発売日に買いに行ったんです。翌1992年12月のことです。実際に開けてみると、やはりものすごくいい製品でした。ロスまで飛んだ甲斐がありました。この出たばかりのAccessを使って、色々なシステムを開発しました。日本の開発会社の中では、さきがけでした。 

 

さまざまな業界・企業・組織向けシステムを開発しました。そんな中、自社製品として、人脈管理ソフト「義理かんり」をつくります。これが、マイクロソフト担当者の目に留まり、共同でプロモーションを行うことになりました。Accessを普及させたいマイクロソフトからの依頼で、ソースコードを開示することを了承したのです。これもダンクソフトらしい、オープンで、開発会社としては画期的な選択でした。そして、製品は爆発的に広がっていきました。   

1992年、「義理かんり for Access」リリース 

https://www.dunksoft.com/message/2019/12/2   

▎未知を追いかけ、面白がるマインド 

 

まだインターネットが今のようになかった当時、最先端のものを取りに行くには、実際に行くしかありませんでした。私は昔から好奇心が強く、つねに新しいものを取り入れていきたいという気持ちがあります。ロスにいた従兄弟やアメリカのPC雑誌など、外の情報をみずからの足で取りに行っていたおかげで、「次」へいち早く踏み切れたのかもしれません。 

 

私に限らず、当社のメンバーは、未知のものを面白がり、未知のものを常に追いかけているところがあります。新しいものに出会うと、次のことができます。この姿勢は、ダンクソフトの特徴である「インクリメンタル・イノベーション」の土壌となっています。   

▎震災、テロ、核 

 

この頃も80年代同様、がむしゃらに仕事ばかりしていて、世の中で起きていたことや、時代のエピソードをあまり覚えていません。ですが、1995年、大きな災害や事件・事故が立て続けに起こります。1月の阪神淡路大震災、3月のオウム真理教による地下鉄サリン事件、そして12月の高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故です。 

 

テレビから流れる震災の映像は衝撃でした。関西の仕事も多かったこともあり、神戸の被災地へも足を運びました、あの頃から大きな災害が起こり始めた、という印象が強いです。地下鉄サリン事件はオフィスのごく近くで起きたもので、パトカーや救急車のサイレンが鳴り続いていました。 

 

それまで平和に過ごしていたものが、そのような危機や災害は決して対岸の出来事ではなく、リアルに自分の身に起こりうるものなのだと初めて実感をもって認識したのが、思えばこの時だったのです。   

▎「よい社会をつくりたい」 

 

「もんじゅ」の事故については、もう少し違う思いがあります。実は私は、福井県敦賀市にあるこの原子炉に仕事で関わっていた時期があります。具体的な話はここでは控えますが、そこで見聞きした経験は、現在のダンクソフトや私自身にとって大きなものとなりました。特に、「エシカル」であること、そして「インターネットによりよいものをのせていく」という未来像にとってです。 

 

こうした経験を通して、私は、一人ひとりの生活が豊かになるために「よい社会をつくりたい」という思いを強め、そのための仕事をしていく会社でありたい、と考えるようになりました。人の生活とリスクをどう考えるのか。そしてデジタル・テクノロジーは、暮らしや社会の課題解決にどう寄与できるのか。デジタルで私たちができることは、これからに向けて、まだまだあると考えています。 

 

中央集権的でなく、パーソナルで民主的な、オープンで開かれた社会。トップダウン型でなく、自然発生的なネットワーク型の広がりへの志向を、明確に意識するようになりました。   

▎1995年、インターネット時代のはじまり。「ダンクソフト」のはじまり。 

 

1995年、Windows95が発売になります。日本語版発売日の、深夜のお祭り騒ぎを覚えている人も多いことでしょう。 

 

そして1995年といえば、後にインターネット元年と言われる年で、ここからインターネットが社会全体に広がっていきます。 

 

当社の社名変更も、この年でした。デュアルシステムから「ダンクソフト」へ。 

 

この年は、ダンクソフトにとっても私自身にとっても、大きな節目となる年だったのです。