今月のコラムは、ダンクソフトの歴史を語る「HISTORY」シリーズ第4回目。2000年代をとりあげます。21世紀に入り、IT業界の動きが社会全体の潮目をつくりはじめました。ダンクソフトも、現在につながるさまざまな変革や転機を経験していきます。
▎GAFAの萌芽と、日本のガラパゴス化
前回の「HISTORY3」では、インターネットが登場しはじめた90年代後半のエピソードをお話ししました。Windowsが95から98へと大躍進し、AppleからはiMacが登場してV字回復。一方、ダンクソフトでは、私がインターネットに感じた可能性をいち早く実験し、フランスへの旅で未来への確信をつかんだ時期でした。働き方を変えていく方向も、その中で見えてきました。
今回は、2000年代です。Google、Amazon、Facebook、そしてTwitterなどの新興企業が次々と登場し、EコマースとSNSが急激に伸張しました。ですが、日本ではいくつかのハードルのために、インターネットと基幹システムの接続がうまく進みませんでした。私の感覚では、インターネット化への動きがぱたっと止まってしまった。むしろ後退して世界から日本が取り残されてしまった時代でもありました。
何がハードルとなっていたのか。その中で、ダンクソフトは何をしていったのか、2000年代の葛藤と挑戦をお話ししてみようと思います。
▎大きく出遅れていた日本
2000年9月、Googleが日本語による検索サービスを開始。同11月、Amazonが日本でのサービスをスタート。2001年1月には英語版Wikipediaが初めて公開されるなど、世界はいよいよインターネット時代かと思われました。実際、日本の企業でも電子メールはいち早く広まりましたし、パソコンもようやく1人1台時代になってきていました。しかし、そうした表面的なインターネットの普及とはうらはらに、システムの根幹のところでは、日本は実は大きく出遅れていたのです。
欧米では、インターネットの普及に先立ち、MS-DOS時代にすでにネットウェアやネットワーク・システムによるファイル・サーバーが広く浸透していました。つまり、これは、社内LANが普及して、同僚たちとファイル共有が社内で行える状態です。その後でインターネットが入ってきたため、情報が保存される基幹システムが社内にまずきちんとあり、その上でインターネットを介して外部とつながるという、あるべき順序で展開されました。
▎日本のデジタル化を阻んだ3つの理由
しかし、日本は違いました。日本が出遅れたのには、3つの理由がありました。
ひとつ。日本では、まだLAN環境さえ十分に整わないうちに、インターネットが来てしまったことです。そのため、基幹システムでデータベースをしっかり構築することをしないまま、それとは別のところで、インターネット上で動的に情報を動かす試みが始まってしまいます。
これにより、多くのECサイトは基幹システムと連携できず、ECサイトで集めた情報を社内データベースに改めて入力しなおすなど、情報が二重化していたのです。企業やビジネスの情報の持ち方としては、良い状態ではありませんでした。
2つ目の理由は、ネットワーク回線が遅く、速度がまったく足りなかったこと。できなかったというより、古いサービスを優先して、キャリアが普及させたくなかったのではないかと思っていますが、その後、ソフトバンクBBが登場してADSLを日本中に配ることで、高速インターネットが普及します。それまで、日本のネットワーク環境は大変もどかしいものでした。
3つ目として、日本語という言語特有の課題がありました。27文字のアルファベットで完結する英語に対して、日本語はひらがな・カタカナ、それぞれの全角と半角、さらに膨大な数の漢字があります。これらを処理するジャストシステムのフロントエンド・プロセッサは画期的な発明でした。同時に、システムにとっては大変負荷のかかるものでもあり、文字通り“PCの重荷”となっていました。日本語をのせると使い物にならない。そこでダンクソフトでは、ネットウェアは英語版、ATOKは明朝体以外のフォントをはずし、必要最低限にスリム化してシステムを動かすというアクロバティックな方法で、この課題をクリアしていました。
▎自分たちが「理想のインターネット」を実現していく
こうした複数のハードルのために、もっと画期的に進んでいくと考えていたデジタル化が、日本では思ったように進みませんでした。それどころか、むしろ後退して、世界から取り残されて止まってしまった感じがありました。それが2000年代の日本のIT事情で、当時感じていた歯がゆさでした。
それでもダンクソフトは、「インターネットの理想」を追求していきます。データベースが得意なことと、いち早くインターネットの可能性を試していたことが、功を奏しました。既存の社内データベースとEコマース・サイトを連携するプロジェクトへの要請が増加していきます。アメリカの大手スピーカー・ブランドも、当時のクライアントのひとつでした。
また、予測したように世の中のデジタル化が進まないならと、むしろ自社内の環境改善に力を注ぎ始めました。デジタルで実現したいこと、未来のあるべき姿を自分たちで実践していき、「ほら、こういうことだよ」と周囲に見せられるようにしようと、動き始めます。
▎何よりも「人間」に注力した
根底にあったのは、会社がより良くなっていくためには、会社の体質を変え、働きやすい環境をつくることだ、という思いでした。そうすることで、スタッフがモチベーションをもって働けるようになるだろう、と考えたんですね。そうした先にしか未来はないという確信がありました。
就業規則を創業以来はじめて変更したのが、この時期です。女性スタッフが抱える出産・子育ての課題を中心に、働きやすい環境を自分たちで積極的にデザインしました。例えば、就業規則をスタッフ自らが作成したのは、その典型例です。驚くほど効果がありました。自分たちでつくったルールですから、スタッフたちが内容をよく覚えているんです。普通は誰も関心がないんですが、就業規則なんて。このタイミングで人事評価制度も新たにつくりました。数値的に見えやすい結果を評価するだけでなく、一人ひとりの行動を丁寧に評価し、プロセスを評価してきました。今では、スタッフの評価をめぐって、もっとじっくり対話するようになっています。
その後も、社内コミュニケーションの機会を増やし、2006年には初の「DNAセミナー」を開催しました。以来、年に1、2回は全社員が集うCo-learningの場を用意しています。2022年6月に内閣が提示した新政策の中に、「人材への投資」が重点テーマとして入りました。この背景には、実は世界各国と比較して、日本企業は人材への投資をしてこなかったという事実があります。こうした中、継続的にスタッフが互いに育っていく環境づくりをしてきたことは、誇らしい取り組みだと考えています。
▎『哲学講義』から受けた刺激
当時も今も、私がイメージしているのは、ヨーロッパの働き方です。1998年のフランス滞在で、彼らの働き方や休暇の取り方をじかに見る機会がありました。
また、当時プロジェクトで連携した法政大学教授から紹介された書籍からの学びも、大事なモチーフになっています。
これは、ポール・フルキエの書いた『哲学講義』という本なのですが、フランスのリセ(高等学校)で、哲学の代表的な教科書になっている分厚いテキストです。その中に、フランスの労働社会学者ジョルジュ・フリードマンによる一節があります。
「未来の問題は労働ではなく、逆説的ではあるが、余暇の問題となろう」
つまり、働く人にとって、余暇は本来、人間性の発達と倫理的進歩の時間となるべきもの。しかしそれは反対に、堕落と倫理的無秩序の機会にもなりうる。これをどう防ぐかが問題だ、というのです。
ここには余暇の生かし方の問題があるわけですが、余暇を人間性の発達につなげるには、人は学び続けることが大事でしょうね。こうしてクリエイティビティも発揮していくことができるのだと考えています。
私自身、時代時代で必要な本を読み、話に耳を傾け、かつ実践しながら、新しいはじまりをつくってきました。ダンクソフトには、「時間は人生のために」というモットーがあるのですが、これは、この頃に生まれました。フルキエの『哲学講義』もそうですし、中国との縁がきっかけで読んだ孔子の『論語』、荘子の『荘子』も好きです。本は時代を超えて人に出会えるので素晴らしいと思います。
▎初のMicrosoftアワード受賞
2000年代後半のハイライトのひとつは、初めてMicrosoftからアワードを受賞したことです。
2006年にアメリカでDynamics CRMというデータベース・ソフトが発売されました。日本支社のダレン・ヒューストン社長(当時)に相談をすると、本社の担当者を紹介してくれました。すぐにシアトルまで会いに行きました。
話をしてみると、Dynamics CRMでダンクソフトの実現したいことが表現できることを確信、その年の後半から、開発をスタートしました。
結果、2007年には、Microsoftのパートナー・プログラムで実績を評価され、パートナー・オブ・ザ・イヤーを受賞。パートナー企業の数は、日本だけでも万を超えますが、ゴールド・パートナーは数えるほどしかありません。しかも、ゴールドの中では一番小さな規模の会社だったので、嬉しく光栄なことでした。
▎「SmartOffice構想」の兆しは2000年代に
ここから、ダンクソフトはさらに加速します。
翌年の2008年には、クラウドサービスの導入・運用支援の提供を開始。伊豆高原でサテライト・オフィスの実証実験にも挑戦します。これについて、40周年を機に、詳しい物語を書いてみました。よろしかったらご覧ください。
そして、ダンクソフトで最初のテレワーカーが誕生するのが2010年4月。今にして思えば、現在かかげる「SmartOffice構想」の布石ともいえる動きが、2000年代には始まっていたのでした。
2010年に入ると、テレワークやサテライト・オフィスを本格稼働させます。「インターネットに よりよいものをのせていく」という現在の流れに向かって、インクリメンタル・イノベーション(漸進的イノベーション)に着手した時期です。この2010年代については、また次の機会にお話ししようと思います。