遊び心で新しいことにチャレンジできる、ダンクソフトのDNA 

ウエマツ創研 代表
植松 祐輔 氏 


 ダンク初の新卒採用、クールで集中できる職場 

ダンクソフトが40周年目を迎えるということで、久しぶりに、星野さんとお話しする機会がありました。私自身がダンクソフト初の新卒採用だったことを思い出し、記憶がいろいろとよみがえってきました。 

 

創業が1983年、私自身はその6年後の1989年に参加し、17年間プログラマーとして働いていました。プログラミングを始めたのは中学の頃。コンピューターの専門学校でCobol(コボル)をやって、やはりその後はコンピューター関連の仕事につきたかった。 

 

できれば、独立系で人数が少ない企業を探していたところ、デュアルシステム(当時の社名)に出会いました。面談をしたらよさそうで入社。星野さんが社長になって3年目の頃だそうです。 

 

社風は、割とみなさんクールで、干渉しあわないところが好きでした。私自身は人としゃべるタイプではないため、上司と技術的なことをしゃべるぐらい。ある日会社に行って、誰ともしゃべらずに帰ってきたことがあって、その時は自分でもびっくりしましたね。 

 

周りにいる人たちは面白い方たちで、色々と自由にやらせていただいた環境でした。20代の頃は会社に寝袋で泊まることも何度かありました。体力もありましたし。だからこそ、いいシステムができたのだろうと思います。業界全体が2000年過ぎまでそんな雰囲気でした。 

 

最先端のAI企業へ出向、自分の開発スタイルを見つける 

入社1年目には、いきなりAI企業へ出向。そこでプログラムをひたすら書いていました。出向先は、当時AIのメッカだったカーネギーメロン大学で最新技術を学んできたエンジニアが集い、証券会社の相場の動きをAI分析するプログラムを開発していた企業です。 

 

まだAIをやっている人もいなかった時代で、最先端でした。刺激的な環境だった一方で、苦い経験もありました。「あまり考えずに、とりあえずプログラムを書き始めて、結局行き詰まる」という体験を繰りかえしました。 

 

しかし、振り返ると、その経験が自分の開発スタイルをつくったともいえます。開発期間全体のうち、最初の60%はひたすら頭の中でお客様の要件と必要な技術を想定します。残りの20%でプログラムをかいて、さらに残り20%でテストとレベルアップをする開発スタイルです。これは現在もプログラム開発をする際に大切にしています。 

 

 

好きなこと、新しいことにチャレンジして生まれた、初の自社製品 

2年目以降はデュアルシステムに戻ったのですが、ちょうどその年にバブルが崩壊。社員は4人だけになり、プログラマーも私ともう1人になりました。ただ、当時は20代半ばで、事情を知らなかったこともあり、実は不安よりも、「好きなことや新しいことにもっとチャレンジできる」という喜びがまさっていました。 

 

ダンクソフトオフィスの玄関に飾られている、「義理かんり」のCD-ROM

その頃に開発したのが、ダンクソフト初の自社製品、「義理かんり」です。発表されたばかりのデータベースソフトMicrosoft Accessでつくったものです。星野さんがAccessの英語版を、発売日にアメリカまで買いに行ったんです。帰国すると、これ見ておいてねと渡されて、いろいろいじりました。 

 

「義理かんり」はとても好評で、想定以上のヒットになりました。マイクロソフトにとっても、Accessのソフトがまだ少ないころで、MSと連携して広めることになりました。販売も自分たちでやっていたので、あて名を印刷して、袋詰めして郵送するのもスタッフで手分けしてやりました。売れた分だけ振込用紙が厚い束になって届くのは、やはり嬉しかったです。 

 

遊びも仕事も、徹底してデザイン性を追求 

この頃は、他にも面白いツールを開発していました。ゴルフをするスタッフたちでコンペをすることがあったのですが、そのためだけに、オッズを算出するシステム「オッズメーカー」をつくり販売しました。オッズ表をつくったり、結果に対して配当がいくらかを計算できたりする、印刷できるツールでした。遊んでいますよね。 

 

通常ビジネス文書はA4縦で使うことが一般的でしたが、わざわざ競馬新聞を参考に、A4横に縦書きでプリントできるようプログラムをいじったり。昔から「デザインやUI(ユーザー・インターフェイス)は美しく」という思いがあり、遊びであっても徹底してやり抜きました。面白かったですね。 
 

 

ヴィジュアル重視の株価推移システムを開発、テレビ放映でサーバーがパンク 

1999年に開発したのが、個人投資家向け株価情報NAVI「ストックウェザー」です。これは「ストックウェザーマップ」(https://finance.stockweather.co.jp/)といって、株価の推移をグラフで表示するというシステムでした。 

 

開発にあたっては、美しいヴィジュアル・デザインを重視しました。株価が上がると赤、下がると青に、さらに株価の変化の幅によって8つくらいの色の階調を用意し、視覚的に一目で全市場の株価の値動きが把握できるものにしました。 

 

昔のコンピューターは色が表現できなかったので、色を付けて見やすくするのは、こだわってやっていました。使う人が気持ちよく使える見た目というのが、入社以来、重視していたポイントです。 

 

この頃は、インターネットが普及してきて、iモードでの証券取引がはじまった時期でした。それだけのヴィジュアル表現で、株価がリアルタイムに、しかもネット上で表示されるのは、当時とても珍しかったのです。テレビ東京の「ワールドビジネスサテライト」にも取りあげられて、サーバーがパンクするほどの注目を集めました。 

 

予想を超えるような美しくて使いやすいデザインだと、お客様は喜んでくださいました。喜ぶ顔が一番ですから、そのためにどんどんデザインも追求したくなりますよね。 

 

 

デザイン・UI・速度を格段にバージョンアップしたシステム 

現在もサポートを続けているサービスが、2002年にスタートしたプロジェクト。広告代理店様が広告掲載社向けにどういった媒体に掲載するとより有効に広告が機能するかを提案するツールを、もともと広告代理店様と大学が産学連携で開発したサービスです。それを引き継いで開発支援できる会社を探していました。そこでダンクソフトの技術力が買われて、システム開発を担当することになりました。 

 

実際にシステムを見てみると、ユーザーの使い勝手を改善できる点が多くありました。そこでお客様と相談しながら、デザインを一新。また、検索システムについても、データ量が多く時間が相当かかることがわかり、プログラムをいちから構築し直しました。お客様も大幅なリニューアルを評価してくださり、開発から20年経った今でも、このシステムが活躍しています。 

 

このプロジェクトについては、私自身がつくったプログラムだということもあり、星野さんの計らいで、退職後も継続して担当するようになっています。「元社員」という立場にとらわれず、今でも柔軟に連携できるのは、ダンクソフトの魅力のひとつですね。 
 

 

先見性で、またひとつ上の段階のダンクに 
ダンクソフトでは、私が退職した2005年の段階で、すでにリモートワークが始まっていました。また2000年代からはサテライト・オフィスの実証実験を始めていました。徳島オフィスとか、宇都宮オフィスとか、日本各地に広がって、すごいなと。今は当たり前ですが、2000年代真ん中ごろにこれをやっていたので、最先端だなと思ってみていました。 

 

私自身は退職後、頚椎症による頭痛を解消したく、あん摩マッサージ指圧師の学校に3年間通って、資格を取得しました。浪越徳治郎の学校です。現在は、あん摩マッサージ指圧師でもありますが、そこで学んだ生理学や解剖学に興味を持ち、学びをサポートする側として、資格取得ための問題集を出版・販売もしています。ここにも、プログラミングの技術や、「義理かんり」の開発から販売まで経験したことが役立っています。 

 

もう40年か!という感覚です。今もプロジェクトで連携できるのはご縁ですね。私自身は、今は生業こそ変わりましたが、コンピューターの知識やプログラミング技術を活かして、これからも、学習アプリの開発など、新しいチャレンジをつづけてみたいと考えています。 

 

最近のダンクソフトは、昔に比べると開発する人よりも、ソリューションに携わる人が増えている印象があります。私たちのように技術を持ちながら独り立ちして社会に出ていく人が、今後たくさんでてくるので、そういう人たちとダンクソフトが連携して、開発したものをソリューションする会社になっていくのかもしれません。これから、またひとつ上の段階の会社になっていくのではないでしょうか。